なぜインド料理を作ろうとおもったのか 運命のお店
インド料理を作り続けて20数年が経った。
最初はサラリーマンをやりながら、趣味で作り続けてきたが、
気が付けば南インド料理店を開業し、9年目に入った。
そもそもなぜインド料理を作ろうと思ったのか?
なんどり店主がその原点を掘り下げるシリーズ。
だいぶ間があいてしまった…このシリーズはここからが長いんだよね。
自分で作り始めるようになると、気になるお店に行っては、味の分析しながら自分で調理の繰り返しになるんだけど、お店で食べた味に近づけるかというとそう簡単にはいかない。
それにこのころは、前にも書いたけど、南インド料理を出しているお店がひじょーに少ないので、どこそこに食べに行ってというのができなかったんだ。
なので、ひたすら「誰も知らないインド料理」、「ごちそうはバナナの葉の上に」のレシピをみながら作る毎日。
はたしてこの味でいいのかな? と自問自答しつつ、ひたすら作り続けるという。
さて本題にはいろう。1999年7月25日のことだが、当時TOKYO CURRY SHOP LISTというのがあって、そこでここのインド料理が最高にうまかったとの報告があり、足早に出向いたお店、それが
サンサール小岩店
そのときの様子は、ここに詳しくレポートしているので見てもらいたい。
オープンしたのが6月だったので、およそ1月後ぐらいに訪れたわけだが、このころはネパール料理は出していなくて、オーナーのウルミラさんが前に勤めていた船橋のインド料理店ガンディのメニューをほぼそのまま持ってきたような内容だった。
まだ新宿店、北口店(閉店)、本八幡店もない時代である。
先のレポートにもあるように、いろいろ話をしていて彼女がネパール人だったということで、グンデュルックとウォーを食べることができた。そのほかスリランカのカレーだとかもでてきた。
最初期のサンサールは、ネパール人のウルミラさんに、弟のモハン、そしてシェフがスリランカ系タミル人である、ランガンと弟のクーガンでお店を回していた。ウルミラさんとランガンは、昔アジャンタで働いていたことがあり、サンサールの前の
船橋でも一緒だったこともあって、インド料理の味の根幹はアジャンタにある。その味が今も継承されている。
そしてこの日から、サンサール通いが始まった。当時のレポートを見ていると2日とか3日おきにお店に訪れている。
毎回ネパール料理やランガンが作る、南インド料理を食べていた。
ちなみに今のサンサールでは、ウルミラさんが作ったネパール料理はたまにしか食べることが出来ないようだが、このころはウルミラさんしか作っていなかったので、いつでも彼女の料理が普通に食べられたのである。
南インド料理に興味を持ったことから、サンサールに通っていたのだが、それと同時にこんな美味いネパール料理をもっと多くの人に食べてもらいたいと思って、yahooの掲示板とかでも宣伝しまくったし、自分がやってるIFCのサイトでも、ガンガンレポートしていったものだ。
それが功を奏したのか、少しづつ新しいお客さんが増えてきた。
最初の年は定期的にパーティを多く企画してやったりして、そこからケララの風2のオーナーの沼尻さんや、渡辺玲さん、浅野哲也さん達とも知り合うことができたし、その他多くの南インド料理ファンの方達同士が集う場所にもなっていった。
ウルミラさんのことについては、多くの人が知っていると思うし、私のレポートでも見てもらえばわかるので、あえてここでは語らない。
むしろこの時期だけしかいなかった、タミル人のシェフ、ガナパティ・ランガンについて少々話をしよう。
なんせこのころのサンサールは、南インド料理色のほうが強かったわけだし。
ランガンが作る料理は、いわゆるパンチが効いた味で、このころに通っていた常連の人は結構彼の料理は好きだったと思う。もともとメニューにはなかった、サンバルなんかも作ってくれたし、他にも若干のティファンなんかも出来た。他にお店がほとんどなかったことから、このころの自分にとっては彼の料理は貴重だったことは間違いない。
通うたびにメニューにない料理をいろいろとリクエストして作ってもらった。ただ、彼もそれほど料理のことを知っていたわけではなかった。サンバルやラッサムなどはいいとしても、クートゥとかポリヤルというものがわかっていなかった。正確には、食べたことがあっても料理の名前を知らなかったといったほうがいいだろうか。若干の日本語は話すことができたので、苦労して説明して、ああなるほどといって作ってくれたて、毎回そういうやりとりをしてなんとか料理にありつけた。
そんなこんなで、アレ食べたいこれ食べたいとリクエストするもんだから、彼も本腰入れたのか、たまたまチェンナイに帰省(出身はスリランカだけどもチェンナイに越していたらしい)したときに、街の食堂とかで料理を習ったりして、日本にもどったときは新しい料理を披露したりとか、結構勉強熱心だった。そんなこんなで、彼にもファンが出来ていた。
しかし残念ながら12月いっぱいぐらいでサンサールを去ってしまうんだけどね。
そしていよいよ、マニさんの登場である。ランガンもなかなか良かったのだけど、マニさんにはやはり及ばないなぁ。現在までいろいろ多くのインド人の調理人を見てきたけど、私の中ではやっぱりマニさんが一番かなと思っている。
マニさんはわずかの期間しかサンサールにいることはできなかったのだけど、その期間に出していた南インド料理の数々は最高峰であった。そのあたりについてはサンサールのレポートで詳しく書いてあるから、お時間ある人は見ていただきたい。
とにかく刺激を受けまくった。自作の料理も俄然熱が入った。
とりあえず今回はここまで。
次回は…
沼尻さん主催の南インド菜食料理の普及のために始めた「グルジリ」がいよいよ始動!